たまには昔の話を

祖父母から聞いた三宅島の話。
若干、自分自身の体験と小中学生のころ読んだ未来社刊の伊豆諸島民俗考、ぎょうせい刊の伊豆諸島・小笠原諸島民俗誌の内容も混ざっているかも。

  • 消えた集落

現在、島には北から時計回りに、神着、坪田、阿古、伊ヶ谷、伊豆の5つの集落があるが、昔は伊ヶ谷と阿古の間に永根という集落があったという。
昔、その集落に住んでいたある家の七つの子が鞠つき唄(子守唄?)で「家の中に塩がある」と歌っているのを島役人が聞きつけた。
当時、塩は年貢として納めなくてはいけなかったから、横領が発覚したことになるわけです。
それに気付いたその家の親は、その子を臼でひき殺し、罪を恐れた集落の住人はみな逃げ出した。
それでその集落は消滅したらしい。
今ではその場所に「七つの子」という碑が立っている。
また、昔は永根の浜まで貝を取りに行くことがあったが、斜面が急でカヤ(ハチジョウススキ)やアジサイガクアジサイ)の根を掴みながら降りたという。

貝は僕が子供の頃、海で遊んだ後によく取って帰った。
カメノテ、ジジイノセナカ(ヒザラガイ、たぶん岩からはがすと猫背のように丸まってしまうから?)、ウマノヒヅメなんかは味噌汁のだしにする。
アサリ(ヨメガカサカイ?)はアサリとは呼ぶものの、岩に張り付く一枚貝。そもそも島にはアサリが取れるような砂浜があまりない。
一方をへらのように平らに、一方を鍵にした鉄の道具(名前忘れた)ではがして取る。
シタダミ(シッタカ、尻高)は巻貝で、塩ゆでして爪楊枝で引っ張りだして食べる。
エバ(?)はシタダミより少し大きく、貝の出口付近が緑色をしている。病院の下の浜にたくさんいた。
だいたいシタダミやマエバにヤドカリが入っていることが多い。
解禁の日になると、アワビより少し小さいトコブシを取った。
また、ウニなんかも取ったが、祖父の気が向かないと調理してくれなかった。
冬には磯に付くハバノリも取ったという。

アカハラ(和名でいうアカコッコ)は今でこそ保護されているが、昔はたくさんいるし肉もあるのでよく捕まえて焼き鳥にして食べたという。
また、カツオドリ(和名:オオミズナギドリ)も大根と一緒に煮て食べた。脂がすごいとか。
ヤマガラオーストンヤマガラ)は手乗りにして遊んだりしたらしい。
この島のヤマガラは若干体が大きく、頭が大きい。
海辺にはイソヒヨドリが多く、ウミウもいる。
近年はカラスが増えている。

島には狐狸の類はいない。
その代わりに、猫が人を化かすという。
伊豆と伊ヶ谷の間にある長坂で猫が出て、連れていた馬が化かされたとか、猫に化かされて山を一晩中歩き回った人がいるらしい。

  • カンナンボーシ

1月21日の夜には海からカンナンボーシが来るという。
おそらく海難法師が訛ったものだと考えられるが、海で亡くなった人たちの霊のようなものだろうか。
その日は海から砂を取ってきて玄関の両脇に山にしておき、よく戸締まりするものだという。

  • 妖怪と神話

天狗がいたという話はある。
現在三宅高校がある谷の入り口の、さらに奥には山姥が住んでいたという話もある。
しかし、湧き水が少ないので河童の類は聞かない。
常時流れている川はなく、雨の降ったときだけ流れる沢が多い。
伊豆諸島の湧き水分配の神話としては、以下のようなものがある。
昔、神津島の天上山で島々の神が集まって水分配の会議をした。
そこで早起きしていった御蔵島などは多く取ったので、湧き水が豊富になった。
一方、寝坊した島は取り分が少なく、怒って残っていた水を蹴飛ばしたので、神津島にも水が散らばって湧くようになった。

  • 神社

島の主神は事代主命で、阿古の富賀神社に祭られている。
島の人たちは「トガさま」と呼んでいる。
トガさまが剣の錆を落としたのが、錆が浜。
トガさまのお妃さまが、伊ヶ谷の妃神社。
僕が小さい頃妃神社の鳥居を新造して、祖父たちが餅まきをした。
正月には伊ヶ谷の漁港でみかんまきがある。
阿古の港は大きいので、お金もまく。
獅子舞は集落ごとに違う。
島の大祭ではトガさまの神輿が全集落をまわる。
集落の境界で神輿を渡すのだが、その際に双方の集落の獅子舞が見れた。
伊ヶ谷は赤い顔で二人で舞うものだが、伊豆のは金色の顔で一人で舞っていた。

  • 集落

唄に曰く、神着殿ばら伊豆上郎、坪田は平らで牛どころ、伊ヶ谷は頑固でくそどころ、と。
他に伊ヶ谷は殿ばら金どころ、というバージョンもあるらしい。
これは江戸時代伊ヶ谷が江戸から船が着く港になっていたという件による。
上郎はきれいな女の人がたくさんいるってことですね。
坪田は平らなので空港が作られた。

  • 流人の話

島には古くから流人が流された。
一番古いのは平安時代?の三宅真人麻呂だという。
その人の名前が島の名になったともいうが、他にも島の形が家が三軒並んだ形に似ているとか、噴火のことを御焼といい、字が変わったとも言われる。
中世では源為朝が有名で、ゆかりのある名所が残っている。
為朝の力水もその内の一つだが、大腸菌が検出されたので飲むのが禁止されたとか。
伊豆には平家の姫が落人としてやってきた話があるらしい。
江戸時代になると有名な絵島生島事件の生島新五郎など。

島にはシイノキが多い。
山中の古い椎は表皮にノキシノブやマメヅタを巻き付け、枝の分かれ目に土が溜まってオオシマザクラが生えている。
祖父は山仕事に出かけた際、一升瓶いっぱいの椎の実を取って来て、子供たちのおやつにしたという。
その祖父は働き盛りの時、一食に一升飯を食べたそうだが、孫はそんな丈夫な胃は持っていない。

  • 祖先の話

曾祖父はもと千葉県房総半島の出身で木挽きをしていた。
木挽きなので木材を求めて旅をしながら仕事をしていて、沖縄などにも行ったらしい。
それが三宅島で落ち着くことになり、妻をめとって祖母を産んだ。
それでうちには古い屋号というものがない。
古い家には「カンエム」などといった屋号がある。
カンエムとはおそらくカンエモンが訛ったものだと思われる。
伊ヶ谷集落には茅葺きの屋根がないが、昭和の初期に集落一円を巻き込む大火事があり、それから瓦が増えたという。
現在はトタン屋根にしてコールタールを塗るのが多い。
わが家にも「水」と刻まれた瓦が残っているが、これは火事が起こらないことを祈念してのことだという。

  • 馬と牛

島では昔、山頂付近の森で馬を放し飼いにして、必要な際に捕まえて使っていたらしい。
これはたぶんかなり古い話で、確か宮本聲太郎の青い本に載っていた。
牛は昭和に至るまで、ほとんどの家で飼っていたらしい。
カヤ(ハチジョウススキ)を刈って来て、押し切りで切って与えた。
曾祖父は酒が好きな人で毎日酒屋に寄るので、彼が連れた牛は酒屋の前に来ると自然と立ち止まるようになったらしい。

祖父は定置網をやっていた。
ムロアジが取れると、ムロブシとして加工する。
鰹節と異なり、ただ蒸して二枚に切り、干すだけだったらしい。
トビウオはくさやの汁に一晩つけて干物にした。
昔はくさやの汁は一軒一軒持っていた。もともとはただの塩水だけど、付け足しながら繰り返し使うとくさや汁になる。
現在でも堤防釣りでいろいろ釣れる。去年の12月はボラ2匹、タイ1匹、メジナ1匹。
餌はオキアミを使うが、ないときはフナムシを使った。
それでもメジナが釣れたりするんだけど、その時は餌を飲んでしまっていて、煮物にした魚の腹の中からフナムシが出てきたことがあった。
フナムシには背が青っぽいの個体と黄色っぽいの個体がいた。

  • 海藻

島の名産はテングサで、女が海に潜ってテングサを取り、干して出荷した。
伊豆灯台付近ではよくテングサを干していた。
テングサを取る海女は房総半島や伊豆半島、遠くは紀伊半島からもやってきて、島の人と結婚したという。
トサカと呼ばれる赤い海藻は海辺に打ち上げられていることがあって、酢で食べると美味しかった。

  • 山仕事

一時は炭焼きが盛んで、現在でも都道沿いに炭窯を見ることが出来る。
白炭ではなく、黒炭のみ。
背負子で炭を運び出したという。
畑のことは基本的にヤマと呼ぶ。
伊豆にある畑はイズヤマ、というように。
畑仕事はササ(竹?)で編んだ籠を使う。
鳥に食われたくない場所は漁網で囲って鳥を避けた。
狭い場所を耕すには、テガと呼ばれる手鍬を用いる。
鍬で畝を作ることをサクをキルという。
昔は切り替え畑という、一種の焼き畑を行っていた。
焼き畑と異なる点は放棄する際にハンノキ(オオバヤシャブシ)を植えること。
根粒菌により土を肥やしてくれるし、成長したら炭の材料になる。
伐採して焼いた後は、肥えた土を必要とする作物から順番に作付けを変えていく。
水稲はないので、里芋とサツマイモが基本の主食。
陸稲も作って、穂が出ないうちに刈って正月飾りに使う。

  • 山菜

コゴミ(クサソテツ)の生えてる場所を知っているおじさんがいて、大量に取ってくるのだが、聞いても場所を教えてくれなかった。
タラノメ、ヨモギ、タケノコ(ササの子)などを取って、天ぷら、餅、煮物などにして食べた。
タラノメには緑のものと赤いものがあった。
アシタバという名は今日芽を摘んでも明日には新しい芽が出てくるほど生命力が強いことから名付けられた。
実際、アスファルトの隙間からも生えているし、いくらでもある。
畑で育てている人もいたし、ハンノキ林の下で育てている人もいた。
取って来てお浸しにしたり、シーチキンとマヨネーズと和えたりする。

島にはもともと2つの池があった。
新澪池と大路池(古澪池)のうち、新澪池は1984年の噴火で蒸発してしまい、現在は大きなくぼみになっている。
新澪池は一日に七回色が変わると言われ、池の絵を描こうとした画家がついに筆を折ったという話もある。
古くは龍神が住む池と言われたらしい。
エビがたくさん取れたとか。
たぶんほんとは「しんみおいけ」と読むのじゃないかと思うけど、「しんみょういけ」と呼ばれている。
大路池は現在でも水をたたえ、大路藻という珍しい水草を生やしている。
近年になってブルーギルブラックバスを放流した輩がいるらしく、エビが減っているとか。
ガマも生えてます。
大路池の回りには古い椎の森が残っている。
「迷子椎」と呼ばれる椎は、迷子になっても、その木を目印にすれば良いというほど大きいからその名があるという。
鳥も多く、アカコッコ館も大路池の近くにある。
冬にいったら、オオバンの群れが池に浮かんでいた。
もう一つ、長太郎池と呼ばれる場所もあるが、ここは溶岩で外海と区切られたタイドプール。
サンゴや魚の稚魚やアメフラシの類がたくさんいるので、自然観察によく使われる。


一部記憶違い等で間違っていたらごめんなさい。
こうして考えると、小さい頃は毎年のように島に行っていたので、本当の故郷のような感じ。
そして、民俗学と生物学に興味があったのも、島の影響をもろに受けているな、と。
他にも思い出すことがあったら、また今度書きます。